徒然なるままに読書

書評から日々の考え事まで綴ります

映画『マイノリティリポート』

あらすじ
 西暦2054年、ワシントンDC。政府は膨大な凶悪犯罪を防ぐ策として、ある画期的な方法を開発し、大きな成果をあげていた。それは、予知能力者を利用して凶悪犯罪が起こる前に犯人を逮捕してしまうというシステムであった。このシステムのお陰でワシントンDCの犯罪件数は激減、将来的にはアメリカ全土で採用されるべく準備が整えられていた。そんなある日、このシステムを管理する犯罪予防局のチーフ、ジョン・アンダートンが“36時間後に見ず知らずの他人を殺害する"と予知され、告発されてしまう。追う立場が一転して追われる立場になったジョンは、自らの容疑を晴らそうと奔走するのだが、彼は既に大きな陰謀に巻き込まれていたのだった……。

 

  未来予知によって犯罪を未然に阻止し逮捕するシステムが都市に普及し計画殺人は実行の数日前に、衝動的な殺人は数十分前に犯罪予防課が察知することで安全が保たれていた。しかし、システムの維持は生きているとも死んでいるとも言えない予知能力者の犠牲、まだ犯してもいない罪で逮捕されるという人権侵害の上で危ういバランスのうえで成り立っている。犯罪予防という絶大な恩恵と予知の完璧さが支えているがいったん予知に不信感を抱いたらどうだろうか。冤罪があることを承知でシステムを利用することで少数の犠牲を黙認するか、犯罪被害という負の面を承知でシステムを廃止するかの二択になると考える。功利主義の立場からは社会全体の幸福量、ここでは安全の恩恵という快楽が少数の犠牲という苦痛を上回るのでシステムは肯定されるだろう。それに対し自由平等主義からは人権侵害があることからシステムを否定するだろう。

 映画の結末は予知の不完全さからシステムの廃止、恩赦が実施された。この世界はどうなるのだろうか。予知されなくなったことで犯罪は急増するのか、それともシステムが存在したことが人々の抑止力となり現状維持となるのか。どちらもありえる未来だと思う。

 

<iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=microx-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=B00B1NYC68" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>