徒然なるままに読書

書評から日々の考え事まで綴ります

過去からの断罪/映画「叫」

 人には後ろ暗い過去がある。しかし、その過去を誤魔化すのではなくあったこと自体を忘却していたとしたら…
 先日*1に引き続き、黒沢清監督の作品「叫」を観た。ジャケットを見る限りホラーだが、レンタル区分ではドラマ/サスペンスなのでそこまで怖くはない。

 

あらすじ

 「CURE キュア」「ドッペルゲンガー」の黒沢清監督が、再び役所広司を主演に迎えて贈るミステリー・ホラー。不可解な連続殺人事件の謎を追う一人の刑事が、やがて忘れ去られた過去の記憶の迷宮に呑み込まれ混乱と恐怖に苛まれていく姿を描く。
 連続殺人事件の捜査に当たる刑事・吉岡。犯人を追っているはずの吉岡は、しかしそこに自分の影を見て揺れ始める。被害者の周辺に残る自分の痕跡、さらには自らの記憶すらも自身の潔白を確信させてくれない。苦悩を深める吉岡は、第一の殺人現場に舞い戻り、そこで不気味な女の叫び声を耳にするのだが…。

 

 行いに対する3類型

 人は自分の行いすべてを覚えているわけではない。大きく分けて3つある。

  1. その行い自体を忘却する
  2. 行いを記憶にとどめる
  3. 行いを記憶しながらも、抱えることができずすべてをゼロにする衝動に駆られる

  どの態度が望ましいのか。

 

過去からの告発

 映画のなかで何度か地震が起こる。映画冒頭の地震によって液状化、海水が滲み出るシーンがある。液状化新潟地震で注目されたように海や湿地を埋め立てできた地域において上部の道路や建物が被害を被る。映画に即して捉えると、忘却していた過去からの告発、あるいは復讐である。地震はトリガーであり、刑事・吉岡は地震の後に赤い服の幽霊を目にする。
 

 吉岡はカウンセラーとの会話のなかで幽霊=真実の声ということを聞かされる。では、吉岡と連続殺人事件の犯人達は、幽霊から何を咎められているのか。それは無作為である。具体的には、15年前のフェリーから幽霊に気付いていたのにもかかわらず、なにもせずその出来事自体を忘却してしまったことである。
 幽霊の告発を受けて*2、各犯人はそれぞれの過去を清算していく。それは、ある人は不出来な息子を殺して子の養育という責任を放棄し、また、ある人は不倫関係にある男を殺してその関係を白紙にする。これらの対応は先の類型の3に該当するが、吉岡は違う。類型の2である。

 

吉岡の対応

 吉岡は赤い幽霊の声(=過去の声)に耳を傾け、忘却していた過去を一身に背負うことを選択する。その決意の表れが二人の遺骨を持ち運ぶことである。*3
 過去と向き合い赤い幽霊からの許しを得た吉岡の背後でラストシーンにおいて声なき叫びが木霊する。確かに真摯に過去と対話することで吉岡は許しを得た。許された以上叫びは聞こえない。しかし、許しは吉岡に対してのみである。他人は相変わらず責めを受けることになり、今後も同様の殺人が起こることを示唆している。*4

 

自分の行いとどう向き合うべきか

  本作には対照的な幽霊が登場する。その幽霊とは、もちろん春江と赤い幽霊である。終盤に妻の春江は半年前に吉岡の手で洗面器に海水を張って溺死させられていたことが明らかになる。*5だが、同じ幽霊でもその役割は異なる。春江は、吉岡を赦しその罪を忘却することを良しとする一方で、赤い幽霊は吉岡その他の忘却を弾劾する。
 一般に、過去と対峙することは良しとされているし、実際に赤い幽霊から許しを得ることに繋がった。ところが、春江は吉岡に対して「思い出さなければよかったのにね」と言い、映画全編で過去や未来よりも現在を意識した言動をする。吉岡が過去と向き合い、妻殺しを自覚するとその姿は消える。

 結局のところ、過去と向かい合うことの是非は一義的に決まらないことになる。冒頭の問いの答えも同様にどの態度が望ましいと言えない、という曖昧なものだ。しかし、1つだけ言えるのは、一度でも自身の罪を自覚した以上はそれから逃れることはできないことだ。


黒沢監督作品の記事

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*1:機能不全に陥る家庭/映画「クリーピー 偽りの隣人」 - 徒然なるままに読書

*2:落ち度なく被害を受ける点では呪いじみている。幽霊の言葉「私は死にました。だからあなたも死んでください。」によく表れている

*3:二人とは、妻の春江と赤い幽霊である

*4:カウンセラーは真実の声が限界を超えたという表現を使う

*5:吉岡の二つ目の罪。

連続殺人と同じ手口。吉岡も他の犯人と同じく幽霊の影響を受けていたと思われる。動機はおそらくはっきりとしない関係の清算