徒然なるままに読書

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<あり得べき社会>を構想する! 書評『自由か、さもなくば幸福か?: 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』

あらすじ        著:大屋 雄裕
20世紀の苦闘と幻滅を経て、私たちの社会は、どこへ向かおうとしているのか?“あり得べき社会”を構想する。

 どんな本か?

 自由と幸福を実現する19世紀型システムの綻びとそれを経た20世紀,21世紀はどのような社会になっていくのか。J・ベンサムの考案したパノプティコンを応用しながら描き得る3つの社会像を描写する。

概要

19世紀型システム 

  19世紀において自由と幸福が結合し自己決定の自由が何より欠かせないものとされた。ミルが自由論で述べているように自分で決定するからその苦難も堪えることができる。議会が制定する法は少なくとも議員を自らが選挙で選ぶ限りで自己決定となり,支配と被支配を自己に対して行う。自分を治めることは自己に対して圧政を敷くことはないため他の政治形態よりより良いとされている。また自分の選んだ候補が落選し,自分の意見が代表されていないと感じても次回の選挙で当選する可能性があるので自分の意思とは異なる法にも従うことができる。

 政治参加の自由,参政権が重要であるが,参政権が付与されることは国家の一員と見なされることと同義であった。19世紀では子や女性は国家が保護すべき存在として戦争に参加することもなかったが,参政権も与えられなかった。

20世紀と全体主義 

  19世紀のシステムは個人が自己に資する決定を下し,その責任を負う判断ができることを前提に構築されたが,20世紀の戦争経験がその前提が誤りであることを証明した。

 19世紀まで共同体が個を縛りながらも共同体意識を共有することで安定を手にしていたが,近代化とともにその共同体は崩壊し,個人は安定を求めるようになった。そのような中で自分が決定できる自由を有することを重荷に感じ,何が何でも安定を求める心がその自由を放棄し積極的に集団へと帰属していく。その先がナチスという世俗宗教であり,熱狂し,畢竟全体主義国家へと変貌していく。

21世紀の社会 

  個人が正常な判断力を有するわけでも責任を負うほど強いわけでもないことが2世紀を通して分かった。では21世紀は何を求めるか。それは安心と安全である。警察が設置する防犯カメラを始め商店街や駅など至る所に設置されている。数にして合わせて1000万台になるが民間が70%を占める。ただ防犯だけでなくドライブレコーダーなど個人が所有するものを含めるとさらに増加する。一定の権利を犠牲にして安心と安全を確保する。これは社会を構成する人々が不安に苛まれていることを示している。社会が多様化したことでどんな人がいるのか,その振る舞いが見えなくなっており他人が自己を傷つけないかと不安でどうしようもなくなる。

 3つの社会像

  第1に,新自由主義型社会である。あらゆる規範や掟などを自己で選択調整した中世へと立ち返り,そのまま受け入れる社会である。もちろん,価値や規範が人によって異なるので衝突することが考えられる。しかし,国家もそのような価値規範の一つであり超越した地位にあるのではなくのでこの衝突を止めるには自力救済によることになる。

 第2に,「感覚のユートピア」型社会である。根幹となる制度が支配者となり,その他いかなる者が自由に振る舞いつつも調和した社会となる。しかし,個と全体とが一体化したものと成り下がり,現在の個性や人格というものはなくなる。

 第3に,ハイパー・パノプティコン型社会である。全員が区別なく監視されることである種の安心・安全を実現する。監視されることで我々が対等になり,相互に監視されることで信頼を得る。

感想 

  選択肢の3つの社会はいずれも理想的でも最善でもない。しかし,選ぶとしたら人格が確立し一応の安全が存在するハイパー・パノプティコン型社会だ。従来の監視では,死角が存在せざるを得ず徹底した監視ではなかったけれども技術の進化によって監視精度が上がっている。プライバシーやその他権利よりも安心・安全を求めるときこの社会が顕在化する余地がある。