徒然なるままに読書

書評から日々の考え事まで綴ります

『大衆の反逆』

あらすじ    著:オルテガ・イガセット
1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。

  「大衆」とは、よく連想される労働者のような階級に留まるものではなく、上流階級や労働者階級まであらゆる階級に点在している。その特徴は、自身が平凡であることを自覚し権利ばかりを声高に主張し、何ら義務を果たそうとしないことである。対比される「真の貴族」は、自身に義務を課しその要求に応えようと努力し絶えず自己のの研鑚に励む者である。なぜ大衆が生まれたのだろうか。19世紀までに社会は豊かになりなにも不足したものがない状態で生まれてくる。よって、あたかも自身が万能であるかの錯覚を抱き自身の意見に固執し、他者に耳を貸さず自分の殻に閉じこもる。文明の利器を使いこなすがその原理には興味を抱かないので科学技術に対して無関心を貫く。技術の発展が起こらなくなり大衆が支配した世界では遅かれ早かれ文明が衰退していくのだ。現在はまさに大衆に支配されているといっていいだろう。大衆がどう支配するかといえば、世論によってである。世論が大衆の望みを映しそれが政治に反映されるのであたかも大衆が権力を握っているかのような様相を呈する。

 さて現在の日本はどうだろうか。大衆が蔓延っているだろうか。自分でできる限りの努力をせず権利ばかりを求めることがインターネットの普及、SNSなど個人の発信力が高まったことでより容易になった。ここで具体例を挙げたいが適切な例が思い浮かばない。しかし、大衆は存在する。そんな気がしてならない。

 

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